広辞苑には<若さの余り血気にはやって思慮分別を失うこと> とあります。
ヒェー 安易に使っていたけど、結構厳しいのね、その意味ったら。
若気の至りって言葉はなんだか若き日の免罪符みたいで、なんであんな事したんだろう? って赤面してしまうようなことも ”若気の至りで、デヘへ・・・・・”と言いながら ”若気ボックス”に入れて封印しているような感がある。が、よ〜〜く考えてみると、若気ボックス入りの若き日の後悔と、できることなら完全消去、抹殺してしまいたいような後悔と、2種類あるような気がする、私には。
若気ボックス入りの後悔は赤面には違いないのだけれど、そういう結果になる事を予想できず突っ走り、結果的にアチャ〜〜〜 だったわけで、自分としては 『若さの余り、血気にはやって思慮分別を失ってしまいました。(まる)』 と言い訳したい。 が、もう一つのほうは結果は完全に予想できました・・・・。 アホ! ただその一言に尽きる。
どっちにせよ、その”若気の至り” が全くない人生ってあり得るのだろうか? ふと考えてみた。 失態を恐れて何も試みなければ後悔するようなイベントも起こらないだろうが、それはそれで何もしなかった事を後悔するやもしれず????
私の<若気の至りs> がなかったとしたら、私の人生どんなだったろう? なんて湯船につかりながらぼんやり考えてみた。 若気ボックス入りがなかったら、今私はここに居ないね。 居ない、居ない。 学んだ? 若気の自分から? たぶん。
歳を重ねてからの後悔はどう弁明するべきか? 人生80過ぎまで生きるとするなら、私はまだ30年も生きるわけで、80歳になった時に、今の私の年齢の後悔が若気になるのかな?『50代の私はまだひよっこで、若さのあまり血気にはやって・・・・』と、言い訳するのか?
いやいや、私の歳での後悔、失態は若き日の若気と違って代償が大きくつき過ぎるだろう。 思慮分別、思慮分別、思慮分別、失ってはいけない思慮分別・・・・・。お経のように唱えます・・・。
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